一二三:展示にもあるように、国内初の私立伝染病研究所で館長を勤めたのが北里博士でした。研究所では一体どんな人だったのでしょうか?
北里:誰よりも研究熱心な人でしたよ。当時研究所には全国から逸材が集まっていましたけども、研究上のことでは、大変厳しく容赦なく叱責しています。ですから、そのような人柄から親しみを込めて、ドイツ語で「雷」を意味する「ドンネル」という愛称が付いていました。
山本:へー、ドンネル。それは恐れられたでしょうね。
北里:そうですね。でも、ただ恐れられていたわけではありません。研究所でも何か問題が生じたときは、全て自分の責任だと言い張っていました。それどころか、常に部下一人ひとりの適性を見つけ、ふさわしい役職や地位に推薦して彼らを引き上げてたのです。
一二三:素晴らしいですね。
一二三:驚きました……そうだったのですね。
山本:「自分の名前はいいから、弟子たちの名前を残そう」という姿勢があったように見えますね。
北里:所長としての責任感の強さが見える話ですよね。「悪いことは全部俺が引き受けるよ」という感覚があったのだと思います。
北里:そうですね。グラム染色を間違えたのは自分が悪いと潔く認めたのですね。今やキットが完成されていますけど、当時は3種類作るから、その作り方によってどちらにも見えたのでしょうね。また、皆様ご存じの様に菌の状態にも影響されたと思われます。
山本:簡単なキットですが、今でも染色のちょっとした具合で意外に微妙な色になることはあります。普通の菌体はグラム陽性と書いてありますが、あれも赤く染まることはありますよね。
北里:ただ、先ほどお渡しした本にも記載があるのですが、その後カリフォルニアの二人の研究者が膨大な資料を調べ 「柴三郎が発見したのは間違いなくペスト菌だった」 と論文に掲載しています。
山本:とはいえ、そこを突かれて名前を削られるなんて、ひどい話ですよね。
北里:ただ、柴三郎はそんなことよりも感染経路を見極め、開港検疫法を作って日本でパンデミックを起こさなかったことに誇りを持っていたのだと思います。
山本:科学的な発見に対して名誉を持っていたわけではないのですね。
北里:研究のための研究ではなく、いかにペストを感染させないかに重きを置いて、実際に国民を救うことに全力を尽くしていたのですね。柴三郎は実学主義を貫いていたのです。
北里:一つエピソードを紹介します。もともとは内務省の管轄でしたが、1914年に突然文部科学省管轄に移管されることになりました。しかしこの重要な決定が所長である柴三郎に一切知らされていなかったのです。それには柴三郎も激しく怒って、辞表を叩きつけて出て行ってしまいました。ところがその後、所員の3分の2が次々と辞表を出して後を追ったのです。
一二三:3分の2ですか……すごいですね。北里博士を慕って集まったのですね。
山本:こういうところからも、部下から尊敬を集めていたことがわかりますね。
北里:単に怒っているだけじゃ誰も付いてこないですから。ただ、柴三郎自身も皆から恐れられているとばかり思っていたようで、それには驚いたそうです。そして、付いてきてくれた所員たちのため、再び新しい研究所を作ろうと心に誓いました。こうして完成したのが北里研究所です。
一二三:北里研究所は世界三大研究所ですよね。ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所に並ぶ世界的研究所。
山本:医学への熱い思いが今も受け継がれているのですね。
北里:柴三郎は、自分に相談なく東大の附置研になるというのは許せなかったのでしょうね。内心、色々葛藤はあったと思いますが。
山本:せっかく福沢諭吉の援助を得て建てた伝染病研究所だったのに、東大に移されたら目的が代わってしまうことになりますよね。
北里:研究のための研究は、柴三郎にとって耐えがたかったのだと思います。柴三郎は「病気を未然に防ぐことが医者の使命」という想いを抱き続けていましたから。
一二三:こうした想いが研究への情熱になっているのかもしれないですね。今日は北里博士の展示をたくさん見せていただきましたが、本当に研究へのエネルギーをものすごくいただけたと感じます。
山本:こうした精神は現代の研究においても引き継いでいかなければならないですね。
一二三:本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。北里柴三郎博士の半生を振り返りながら、人材育成について考えさせられる有意義な対談でした。
山本:私も大変楽しませていただきました。ありがとうございました。
北里:こちらこそ、ありがとうございました。