AMED 新興・再興感染症に対する革新的医薬品等開発推進研究事業
抗毒素製剤に関する総合的な対策に資する研究[阿戸班]

対談CONVERSATION

血清療法研究への姿勢と人材育成の在り方:熱と誠

CROSS TALK

血清療法研究への姿勢と人材育成の在り方:熱と誠

山本 明彦×一二三 亨×北里 英郎

熊本県阿蘇郡にある北里柴三郎記念館。血清療法の先駆者であり「近代日本医学の父」として知られる北里柴三郎博士の功績を讃えた資料が多数展示されています。今回は国立感染症研究所の山本明彦先生とともに、訪問しました。

ご案内いただいたのは、北里柴三郎博士のひ孫である北里英郎館長。ご自身も北里大学で微生物学を専門に名誉教授も務める北里英郎館長から、北里柴三郎博士の研究所での姿や研究への姿勢についてお話を伺いました。

最後に、北里館長と今後も引き継ぐべき人材育成への取り組みについて対談させていただきました。

研究所における「ドンネル先生」の姿

01 研究所における「ドンネル先生」の姿

一二三:展示にもあるように、国内初の私立伝染病研究所で館長を勤めたのが北里博士でした。研究所では一体どんな人だったのでしょうか?

北里:誰よりも研究熱心な人でしたよ。当時研究所には全国から逸材が集まっていましたけども、研究上のことでは、大変厳しく容赦なく叱責しています。ですから、そのような人柄から親しみを込めて、ドイツ語で「雷」を意味する「ドンネル」という愛称が付いていました。

山本:へー、ドンネル。それは恐れられたでしょうね。

北里:そうですね。でも、ただ恐れられていたわけではありません。研究所でも何か問題が生じたときは、全て自分の責任だと言い張っていました。それどころか、常に部下一人ひとりの適性を見つけ、ふさわしい役職や地位に推薦して彼らを引き上げてたのです。

一二三:素晴らしいですね。

所長としての責任感の強さ

02 所長としての責任感の強さ

北里:柴三郎の人材育成におけるポイントは2つあります。1つは赤痢菌の話です。

一二三:赤痢菌を発見したのは、北里博士の研究所にいた志賀潔ですね。

山本:赤痢菌の正式名称「Shigella」が志賀潔に由来することは有名な話です。

北里:柴三郎はドイツに留学する前から赤痢菌の研究をしていました。しかし、柴三郎は当時伝染病研究所に入りたてだった志賀潔に赤痢の病原体探索を指名し、直接研究の指導をしたのです。志賀潔は研究所に寝床を作って籠城するかのように研究に勤しみ、およそ1カ月で赤痢菌の発見に成功しました。その際、柴三郎は志賀潔に自分の名前は出さなくていいと話していたと言われています。

一二三:驚きました……そうだったのですね。

山本:「自分の名前はいいから、弟子たちの名前を残そう」という姿勢があったように見えますね。

北里:所長としての責任感の強さが見える話ですよね。「悪いことは全部俺が引き受けるよ」という感覚があったのだと思います。

研究のための研究ではなく、真の学問を

03 研究のための研究ではなく、真の学問を

北里:2つ目のポイントは、ペストの話です。

一二三:北里博士は香港でペスト菌を発見しましたよね。

山本:到着から2日という驚異の早さで見つけたと聞いたことがあります。

北里:柴三郎はコッホの研究所で修行を積んでいたので、炭疽菌の症状に似てることに気が付いて、真っ先に血液を調べました。そこですぐに特定したのですが、持って行ったグラム染色の溶液に問題があったのかグラム陰性・グラム陽性を間違えていたのです。その後、「北里が主張する菌はペストの病原菌ではない」という趣旨の論文が出回り、柴三郎はその間違いを認めました。結局、自分がペスト菌の発見者であることは言わなかったと言われています。

一二三:それも言わなかったのですか。

山本:いや……なかなかできることじゃないですね。

03 研究のための研究ではなく、真の学問を

北里:そうですね。グラム染色を間違えたのは自分が悪いと潔く認めたのですね。今やキットが完成されていますけど、当時は3種類作るから、その作り方によってどちらにも見えたのでしょうね。また、皆様ご存じの様に菌の状態にも影響されたと思われます。

山本:簡単なキットですが、今でも染色のちょっとした具合で意外に微妙な色になることはあります。普通の菌体はグラム陽性と書いてありますが、あれも赤く染まることはありますよね。

北里:ただ、先ほどお渡しした本にも記載があるのですが、その後カリフォルニアの二人の研究者が膨大な資料を調べ 「柴三郎が発見したのは間違いなくペスト菌だった」 と論文に掲載しています。

山本:とはいえ、そこを突かれて名前を削られるなんて、ひどい話ですよね。

北里:ただ、柴三郎はそんなことよりも感染経路を見極め、開港検疫法を作って日本でパンデミックを起こさなかったことに誇りを持っていたのだと思います。

山本:科学的な発見に対して名誉を持っていたわけではないのですね。

北里:研究のための研究ではなく、いかにペストを感染させないかに重きを置いて、実際に国民を救うことに全力を尽くしていたのですね。柴三郎は実学主義を貫いていたのです。

引き継いでいきたい北里柴三郎博士の精神

04 引き継いでいきたい北里柴三郎博士の精神

北里:一つエピソードを紹介します。もともとは内務省の管轄でしたが、1914年に突然文部科学省管轄に移管されることになりました。しかしこの重要な決定が所長である柴三郎に一切知らされていなかったのです。それには柴三郎も激しく怒って、辞表を叩きつけて出て行ってしまいました。ところがその後、所員の3分の2が次々と辞表を出して後を追ったのです。

一二三:3分の2ですか……すごいですね。北里博士を慕って集まったのですね。

山本:こういうところからも、部下から尊敬を集めていたことがわかりますね。

北里:単に怒っているだけじゃ誰も付いてこないですから。ただ、柴三郎自身も皆から恐れられているとばかり思っていたようで、それには驚いたそうです。そして、付いてきてくれた所員たちのため、再び新しい研究所を作ろうと心に誓いました。こうして完成したのが北里研究所です。

一二三:北里研究所は世界三大研究所ですよね。ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所に並ぶ世界的研究所。

山本:医学への熱い思いが今も受け継がれているのですね。

北里:柴三郎は、自分に相談なく東大の附置研になるというのは許せなかったのでしょうね。内心、色々葛藤はあったと思いますが。

山本:せっかく福沢諭吉の援助を得て建てた伝染病研究所だったのに、東大に移されたら目的が代わってしまうことになりますよね。

北里:研究のための研究は、柴三郎にとって耐えがたかったのだと思います。柴三郎は「病気を未然に防ぐことが医者の使命」という想いを抱き続けていましたから。

一二三:こうした想いが研究への情熱になっているのかもしれないですね。今日は北里博士の展示をたくさん見せていただきましたが、本当に研究へのエネルギーをものすごくいただけたと感じます。

山本:こうした精神は現代の研究においても引き継いでいかなければならないですね。

一二三:本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。北里柴三郎博士の半生を振り返りながら、人材育成について考えさせられる有意義な対談でした。

山本:私も大変楽しませていただきました。ありがとうございました。

北里:こちらこそ、ありがとうございました。

北里柴三郎記念館シアターホール(熊本県阿蘇郡小国町)
北里柴三郎記念館シアターホール(熊本県阿蘇郡小国町)

PROFILE

北里柴三郎記念館 館長 /
北里大学 名誉教授

北里 英郎

(きたさと ひでろう)

「血清療法」を確立し、世界の医学史にその名を遺す細菌学者・北里柴三郎博士のひ孫。自身も研究者として海外への留学経験を持ち、北里大学 医療衛生学部 教授、学部長を経て、2022年7月北里柴三郎記念館館長に就任。現在に至る。

聖路加国際病院 救急部 医長
/ CCM・HCU室長

一二三 亨

(ひふみ とおる)

北里柴三郎博士の「血清療法」を現代に引き継ぎ、国内で唯一「血清療法」の臨床と研究を行う。救急医として日夜救命救急の現場で活躍する傍ら、有毒生物による咬刺傷の研究に取り組む。ヤマカガシ抗毒素を使用した臨床研究では、24時間365日体制で日本全体の重症症例を担当。専門分野は、血清療法、神経集中治療、外傷、敗血症、気道管理。

国立感染症研究所

山本 明彦

(やまもと あきひこ)

国立感染症細菌第二部で、破傷風菌の研究及び抗毒素をの品質管理を担当。マムシ、ハブ、ヤマカガシの有毒蛇咬傷のみならず、国有抗毒素であるジフテリア抗毒素、ガス壊疽抗毒素、およびボツリヌス抗毒素の疫学調査にも従事。抗毒素における基礎研究の第一人者。